具体的行動を確認しておき、それをただただやっつけ仕事よろしく実行することにより、事は万事、予定通りに進む。
さて、多くを語らず、意見もせず、必要事項のみを提示した結果、意見一致にてケアマネとの話し合いの場を約束するまでこぎつけた段階である。
ここで私の悪い癖が、ひとりでに闊歩する。
電話の際に、一応デイサービスのパンフレットも持っていくと言った。
およそ私の中には考えていない事柄である。
とろいあえず、はいと返事はした。
父は行ってほしいと思っているかもしれないということは言った。
故のことか、若しくは殆どがそれ目当てのケアマネ利用とかいう実態でもあるのだろうか。
さて、私がデイ反対の理由は後に預けるとして、私は祖母をいやいやデイに行かせるくらいなら、自分が見るつもりでいる。
無職なわけだし、問題は無い。
そうした想像から、私の夢物語は始まる。
私が週のいくらかの日中実家に居るならば、祖母の妹なんかも誘えば遊びに来るかもしれない。
また、他の人に出会えば、遊びに来てなーと誘って、来てくれるかもしれない。
その内に、近所の子供らなんかが、ちょっと寄ってみたりして、上がり込むかもしれない。
私は笑顔で歓迎するのだ。
子どもは、冒険心で無邪気にやってくる。
また、その母親なんかが、お世話になってますぅーなんて言ってやってくる。
そうしている内に、我が家が誰でも来られる集会所になるわけだ。
祖母は、賑やかなのが好きなもんだから、たいそう元気に笑うだろう。
・・・とまぁ、このくらいまで風呂で思考して、またやってしまったと思うのである。
思考の飛躍は確かに楽しい。
がしかし、しまったと気付かねば、えらいことになる。
現実をちゃんと見つめねばならぬ。
私は、時に夢見がちになって困る。
そう、ちゃあんと、現実を見るのだ。
でないと、つまづく。
さて、今日は『老子』を学んでみたが、なるほどと思うところもありつつ、半分以上はしっくりいかない。
まぁ、教えなんてそんなもんだ。
今のところ、共感的に感銘したのはサルトルのみである。
やはり人は、『共感』したいのだね。
だよねー、そうそうって話せると、すごく楽しくなるものなんだ。
つまり、行き詰ったら私はサルトルを読めば良いのかもしれない。