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プーブロ

日々の出来事から考えたことや、ふと思いついたこと、主に、そうした頭の中の出来事が吐露されることと思います。アウトプットの場ですね。

社交辞令と色気と嘘と

嘘が苦手な私はメール文末の「お会いできるのを楽しみに……」を真に受けた。

およそ9割のメールに記載されるその文章は私の気持ちを高ぶらせ、また安堵させた。

ところが実際に会いましょうと申し出て見るとその10割にスルーされてしまった。

もしや時間を開け過ぎたかもしれないし、もしやその理由がまずかったかもしれぬ。

だけれども、10割って。

つまりこれは私の解釈が間違っていたと考える方が真実なのかもしれないと思った。

会いたくて書いた文面ではなく、社交辞令というやつなのだ。

私は実際の経験の後にこの社交辞令の冷淡さを感じずにはいられない。

心うかれさせておいて突き落されたのだから。

若しくは、これが一般常識であるならば、無知な私が責められよう。

 

私は実際うかれた。

あぁ会いたいと思ってくれているんだと。

少なく見積もっても会っていいと思ってくれているんだって。

そうして私は安堵してその後の連絡を怠った。

思い込みとは恐ろしい。

 

人が人と会いたいと思うのは、そこに何かしらのメリットがあるから。

同性であれ異性であれ会いたいと思う気持ちには何かしらの色気を感じる。

私はその色気を払拭する意味も込めてクラファンの営業を全面的に出した。

その方がまどろっこしくなくて良いと思ったのだ。

最初から私の目的を示したわけだ。

だがしかし、理由が何であれ会いたいと思われるのは嬉しいことである。

ただそれが最初からまるっきしの嘘ならば寂しい。

嘘というのは、社交辞令ということである。

 

私は結局誰にも会えずにいた。

10割の社交辞令の言葉を鵜呑みにしたためにショックだけが残ってしまった。

バカだねぇ私。

 

だけどやはり私自身はそううまく社交辞令を使えない。

私が「お会いできるのを楽しみにしています」と書けば本気で楽しみなのだ。

だけど社会に社交辞令だと捉える人が多いのならば

私の本音を本音として聞いてくれる人はいないことになる。

私は受け取る人の気持ちになって書かなければならないのだろうか。

だけどそんなの分かるわけなくて。

やはり私は私の思いで書くしかなくて。

受け取る人が社交辞令だとうけとめるであろうと思っても

会いたい人に会いたいと書き、会いたくない人には書かない。

 

脳内BGM:椎名林檎ありあまる富