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プーブロ

日々の出来事から考えたことや、ふと思いついたこと、主に、そうした頭の中の出来事が吐露されることと思います。アウトプットの場ですね。

ばーばらの階段、私の階段。

人は、生まれてから段々と老いが始まる。

勿論成長期は、老いとは言わないが、毎日、一分、一秒ごとに必ず老化していることは間違いない。

その、終盤に差し掛かり、ある時、これまでやっていたことが出来なくなることがある。

そして、時に復活したり、衰退したりを繰り返しながら、確実に出来なくなる。

それはまだ、こうすれば出来る、という段階であるかもしれないし、誰かに手伝ってもらえば出来ることだってある。

ただ、それを自覚する本人の脳が、一番追い付かない。

出来ない状態であっても、まだ出来ると思い込む段階。

うすうす、出来ないかもしれないと気付く段階。

出来ないと分かってしまっても、自分で認めたくない段階。

自分で理解しても、他者には言えない段階。

こうした段階は、本人にとっても周囲にとっても大変な時期です。

 

例えば、トイレについて。

自分で出来ているはずがこぼしてしまっていて、それに気付いてショックを受けるも、それを片付ける所作も大儀になったら、こぼれていないことにする。

若しくは、誰かのせいにする。

誰かって、誰もいないんだけどね。

 

子どもがテーブルの上のおかしをママに黙って食べてしまって、「食べた?」と聞かれて咄嗟に「犬が食べて逃げてった。」なんて具合。

 

子どもも、お年寄りも、決して騙してやろうなんていう悪気は全く無いんだよね。

多分、自衛心が働くのではないかと思います。

 

さて、汚れた下着なんかを部屋に散らかしたままにされたら、部屋中臭くてたまらない。

出来るなら、それを私が洗うことを認めてもらいたいんだよね。

つまり、世話する者にとっては、お年寄りの羞恥の心が邪魔というのが本音なのです。

ばーばらには、徐々に世話されることに慣れてもらいたいし、困っていることを言えるようになってもらいたい。

私は、それらを躊躇無く引き出せる環境を作ることをしなくちゃならない。

どんな雰囲気で、ばーばらがどういう状態の時に、何と言葉かけをすれば、望ましい行動をとってもらえるのかをフル頭脳で考えて行動することが求められる。

更には、期待しすぎないという技術も必要である。

ばーばらも、私も、ひとつひとつ階段を上っている。

常に同じ時は無い。

お風呂が成功すると、ばーばらも私も嬉しいし、パンツが汚れると、ばーばらは溜息するだろう。

 

今日は、蓋付きバケツをばーばらに見せた。

この中に、汚れた下着を入れてくれたら私が洗うと言った。

「そんなに汚れへんしなぁ。」と、ばーばらは言う。

自己防衛である。

ここで真に受けて、じゃあ、やめとこうか、なんて言ったら、困るのはばーばらなのだ。

本人は、しょっちゅう汚れることを自覚している。

その上で、言葉は否定したいのだ。

私は言った。「めっちゃ汚れてるから、知ってるから大丈夫や。」

ばーばらは、否定はせず「三日に一回か?」などと、少しだけ話題を逸らすのだ。

「一日三回や。」私は、大げさに言ってやった。

大げさすぎて、笑いになるのだ。

しゃぁないな、あんたがそう言うんやったら、なんていう空気に出来たらこっちのもんだ。

後は、覚えているかどうかである。

初めて入れる時は、一人きりでも恥ずかしさを感じるだろう。

それを、作業的にルーチンになるまで、そこまでいったら失禁パンツ問題は、ある程度解消されるであろう。

 

さてさて、認知症の在宅の下の世話、他の家庭ではどうされているのでしょう。

明日、ケアマネさんが来るから、聞いてみーようっと。