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プーブロ

日々の出来事から考えたことや、ふと思いついたこと、主に、そうした頭の中の出来事が吐露されることと思います。アウトプットの場ですね。

孤独老人について

先程帰宅時、いつものようにばーばらが見送ってくれた。

普段、座ったら動かずに

あれ取って、これ取ってのばーばらは

毎日必ず玄関先まで、時には庭先まで出てきて見送ってくれる。

手を振り、最後見えなくなるまで、何か会話をする。

少しでも、誰かと時間を共有したいという思いだろうか。

今日は、手を振りながら

「晩な、寂しいねん。」

そう言った。

私はもう、角を曲がる寸前だったため

返事はせずにそのまま進む。

こういう会話に全て答えていたら、いつまで経っても帰られないのである。

だが、そういう言葉を無視しているわけではない。

帰路、そのことについての妄想が始まる。

 

まず、祖母であるばーばらは独居ではない。

団塊の息子との二人暮らしである。

その点、周囲の者の心配は軽減される。

あくまでも、周囲視点では。

事故の可能性は低いだろうという観点である。

 

だが、ばーばらをはじめ、大正、昭和初期生まれのほとんどが

大家族で育ってきたのではなかろうか。

ばーばらは特に、家が縫製工場をやっていたものだから

家族に加えて住み込みの人やら大勢で暮らしていた。

当たり前のように、どこに行っても人がいて

常に誰かと一緒である。

今の私が考えるとぞっとするが

それが普通なのである。

そして、そうした生活がずっと続くものだと信じてやまなかった。

信じるまでもなく、考えるまでもなく、そういうものだった。

 

つまり、今ばーばらは、あっけにとられているのである。

あれ、おかしいな、いつからこんなに人がいなくなってしまったんだろう。

自分と似たよような年の人は、次々に死んでゆくし

生きていても施設か病院、良くて家にいるのだろうけど

誰も来ないし自分も体がえらいんで出ることなどままならない。

 

年をとると、体が弱る。

それだけでも弱気になるのに

周囲の人もいなくなる。

そうした環境からの脱出という意味でも

デイサービスがもてはやされているようだが

うーん、と私は考える。

ばーばらが、それを望むだろうかと考えたときに

答えは即決NOである。

もちろんデイが悪いというのではない。

もしくは、最初はNOでも通う内に楽しめる人もいるだろう。

でも私は、仕方なく行くとかいう、そうした考え方が嫌いである。

私自身が自由主義であるせいかもしれないし

だからこそ、本人の意を最大限に汲み取りたいと考える。

つまり、本人主体である。

 

ばーばらの望みは、おおよそ見当がつく。

自分は変わらず家にいる。

家族が、親類が、知った人が絶えずやってきて賑やかな家であってほしい。

自分が望んでそうなるのではなく、皆が来たくて来る。

それが当たり前である状況を、ばーばらは夢見るのではないか。

自分は、誰かの相手するときは話すし、疲れたら寝る。

寂しいなんて考える暇すらない状況。

 

だって、これまでずっとそういう生活をしていたんだもんね。

 

私は、ばーばらに、そうした生活を復活させてあげたいと

密かにたくらんでいるんだけど

どうも時間がかかりすぎています。

どうか、健康な状態のまま、まだまだ長生きしてくれなければ困るのです。