プーブロ

日々の出来事から考えたことや、ふと思いついたこと、主に、そうした頭の中の出来事が吐露されることと思います。アウトプットの場ですね。

いろんな人の、いろんな気持ち

今日、ある出来事があって私は

怒りをおぼえました。

怒りの感情に包まれているとき私は

今自分の頭の中で

怒りの物質が放出されているのだと考えました。

その怒りの対象は、ある人物なのですが

私はその人物に怒りをぶつけることはしませんでした。

怒りをぶつけて怒りが収まるとは思えず

逆にトラブルが生じて怒りが増幅すると考えたからです。

 

私は、その人に対してもとより何かしらの期待があるわけです。

そしてそこからかけ離れた行動が露見したとき

私は怒りをおぼえるわけです。

もっとこうしてくれ、そのくらい気づけよと

考えてしまうわけです。

その反面、そういうことに気付けない人であるという事実もまた

これまでの経験によって分かってはいるのです。

 

整理すると

出来ないと分かっていることを

勝手に期待して

期待がはずれると

幻滅して怒る。

 

そう考えるとどうも自分が勝手に期待していること自体が

いけないんじゃないかと思えてしまうわけです。

 

ですが、期待されない人間ってどうでしょう?

それも寂しい気がしませんか?

 

いくら身近な人でも価値観は違う。

ならばある事象が生じたときにとる行動は

全く異なる場合がある。

相手もまた、私の行動に違和感をかんじているかもしれない。

私の行動に怒りをおぼえるかもしれない。

 

最近見かけるAC JAPANのCMで

『いろんな気持ちに、なってみよう。』

というのがあります。

私は結構好きです。

 

他者の気持ちには

はっきり言ってなれないと思っています。

いくらこうだろうと思っても

どこまで考えても自分の想像です。

他者の気持ちに容易に「分かる」なんて言える人は信用しません。

ですが

『いろんな気持ちに、なってみよう』

考えてみようとすることって大切だと思うんです。

 

今日は私、怒りの後、悲しみが訪れました。

答えはありません。

答えが無いだけに

この気持ちをどう処理すれば良いものかと

今後も幾度とやってくるであろう他者とのトラブルに

私がとるべき態度とは一体どういうものだろうか。

 

怒りは本当は示したいし

それが人間らしさでもあると思う。

だけど、それが苦手で

こうやってブログなんか書いたりするのかもしれない。

 

私は本当は

理論的に議論したかった。

でも、それは出来る人とそうでない人とがいる。

議論の出来る人は

本当にありがたい。

互いに見えない気持ちや意見を伝え合い

他者の気持ちや考えを言葉で理解して和解する。

 

でも、どうもそうしたプロセス自体に嫌悪感を感ずる人も

多いように感じる。

そしてそれもまたひとつの価値観であるから

常に中庸が難しいのである。