プーブロ

日々の出来事から考えたことや、ふと思いついたこと、主に、そうした頭の中の出来事が吐露されることと思います。アウトプットの場ですね。

私にとって書くことは生きること

目の前に鍵がある。

私はこの度ただの一人きりとなった。

何者にも縛られない、ただの一人きり。

無限の自由が訪れた。

 

サルトルは言う。

「人間は自由の刑に処せられている」

同感である。

 

自由であるが故に人は他者を傷付ける。

そのつもりが無くとも人は傷つく。

私は他者を恐れた。

 

サルトルはこうも言う。

「地獄とは他人のことだ」

同感である。

 

私の傷口にその地獄があまりに沁みる時

私は社会を閉ざさなければならない。

それを他者がどう思おうが構っていられない。

とにかく一刻も早く逃げ出さねばならないからだ。

 

ただ私は今、皮膚の皮を厚くした。

故に地獄に耐えられている。

それが現状だ。

 

サルトルは言う。

「希望の中で生きよ」

同感である。

 

人は希望を持つから生きられる。

些細なことで良い。

明日の朝食で良いのだ。

私の場合さしずめそれは書くことに他ならない。

書いてはいけないことになったとしたら私は死ぬだろう。

息ができなくなって死んでしまうだろう。

 

私はサルトル実存主義に傾倒している。

これは共感的傾倒である。

故に、若しくはその末梢は異なる部分があるかもしれぬ。

現在のところ近似しているから利用できるのであって

私は私の哲学を構築せねばならない。

それが私の生きる価値なのだ。

「もう答え、決まってるやん」と友人に言われた。

そうか、もう決まっているのか。

確かに、自分の行動は決められたように動いていた。

取捨選択の取る方向性への行動は容易に行っていたのだ。

捨てること、これが難しい。

そもそも捨てるだなんておこがましい。

おこがましいのだが、私は……捨てないわけにはいかない心境になってしまっていた。

行動のタイミングなんて分からない。

その方法も分からない。

喪失感はいかほどか。

私には何も分からないのだけれども

幸い正直な気持ちを吐露する技術は持ち合わせていたのだ。

決断は書かない。

書きようが無い。

これはある意味ずるいのかもしれない。

だって、本音は捨てたくはないんですもの。

だから敢えて自分は言わないでいる。

どうなるかは分かっている。

そこに甘えようというのだ。

これは私の誠の心だと本当に言えるのだろうか。

 

結局のところ友人の言うように答えは決まっていた。

そして私は孤独になった。

私は孤独を愛するらしい。

不安はある。

常に。

だけど、進むしかないではないか。

短い人生なんだから。

私はどこへ向かっているんだろう~

やりたいことをやる。

そう、前へ進む。

行動を継続する。

いくら自分を戒めても

当の自分は浮かれ調子でいけませぬ。

 

ねぇ知ってました?

私、浮かれているんですね。

いけませんね。

あぁいけません。

 

頭が回りません。

取捨選択ができません。

ならば逃げるか?

もう寝てしまうか?

 

でもリミットはすぐそこにきているのにね。

私は逃げる能力だけ持ち合わせているのか?

いや……答えはもう決まっている!?

込み入った事情

ノルウェイの森」が好き。

音楽の方ではなくて、小説。

音楽も勿論好きだけど、ここでは小説。

若しくは映画。

 

「とても事情が込み入ってるんだ。ただ、わかっているのは人としての責任みたいなものがあって、それを簡単に放り出すわけにはいかない。たとえ彼女が僕を愛してないとしても」

 

この言葉が好きなんです。

好きっていうよりは、今の自分に欲しいんです。

使いたいんです。

確かに込み入った事情があるのです。

少なくとも、私にとっては込み入っているのです。

 

私は恐らく何か行動をしなくっちゃならない時にいるのかもしれない。

何もしないでいるのは罪なのかもしれない。

取捨選択が難しいのだ。

どうしても、自己防衛というか、なんとか収まるところを確保しておきたいというずるがしこい感情があるのかもしれない。

若しくは、何もかも捨てされるのか。

あれもこれも必要、大切ってわけにはいかない場合もあるからね。

何かは捨てられて、何かは辛い思いを味わわねばならない。

どうしようもないことで、でも皆そうした試練を乗り越えて生きている。

 

私は誠実でいたい。

他者に対しても、自分に対しても。

そうでない自分がいるものだから、敢えてこう書くのだ。

 

幸福ばかりに浸ってはいられない。

選択、具体的行動、

そうは書きながらも……

眠さにかまけて……

私の罪とは一体何なのか

ドストエフスキーの「罪と罰」を読みたくなった。

手元に無いので諦めた。

ラスコーリニコフはどうでもいい。

私はそんなことを知りたいのではない。

 

私は今私が感じている罪が何なのかを知りたいだけなのだ。

私には頭の切り替えスイッチが欠如している。

故にこうと考えたならばこうと考え終わるまで何が何でもこうと思うしか出来ない。

つまりだね、臨機応変に場所によって変更することが出来ないんだよ。

 

例えば簡単な話で今チーズが食べたいと思ったらもうチーズ以外のことは考えられない。

蕎麦屋に入ってもカレー店に入ってもチーズが頭を支配するものだから美味しく蕎麦を味わえないというわけさ。

そこで蕎麦に対して申し訳なさが生じる。

これが私の罪なのだ。

 

例は食べ物だからいい。

これが人になると辛いよね。

 

私は罰を求める外出来なくなる。

罰によって少しでも自分の罪の意識を打ち消したいと思うからだ。

そんなことを考えながらも罪を積み重ねることを考える自分もまた存在し

私は結局、自己の罪から逃れられないのかもしれない。

 

ただ、この罪って何なんだろう。

何か、誰かが私を責めるのか。

いやそうではない。

自分で決めた枠からの離脱による罪ではなかろうか。

そもそも私はアナーキーではないか。

なのに何故罪を感じる。

感じなければならないのだ。

 

ただ正直なだけではないか。

本当にそうなのか。

正直だと言ってしまえば開き直りに聞こえるだろうか。

 

私の罪。

それは私が決めた罪。

私が勝手に考えた罪。

自分は罪深いと思い込みたいのかもしれない。

そう思うことで罰を自分に与えたいのかもしれない。

罪を軽減させるために。

自己の欲求が叶えられなくなったときの自己の対処について

自分の思うことは常に自分を裏切ってきたという過去からかんがみれば

私が望むことなど到底かなわないと分かるはずだろうに

どうしても期待が胸を膨らませて私は自信たっぷりに鎮座するのであるが

それが夢だと分かったときに私は挫折を味わうのである。

その孤独感というか心の黒い穴がぽっかりとしている感じとか

私はもう私でなくなりたい気持ちになって仕方ないのであるが

どうしても、どうしても、まだ期待する自分が自己の中に存在していることがゆるせなくって私は私ではなくなりたくなるわけである。

 

仕方ないからもう、書くしかない。

アウトプット、アウトプット。

 

寂しい。この自分の気持ちをどう処理すれば良い?

寂しい。私は孤独に眠るしかない。

そう、誰にも思われずに思われていないと思いながら眠ろう。

人は、誰も傷つけずに生きることは出来ないのだろうか。

私が私の欲求を満たすことによって誰かが傷付くという場合

私は私の欲求を満たすべきであろうかなかろうか。

私が欲求を満たした場合人は傷つき私も傷付く。

私が欲求を満たさなかった場合人は傷つかないが私は傷つく。

これはつまり行動の極めて直後の出来事のみを取り扱うが

少し経って後を含めて考えてみた場合

人の傷は必ず癒えるものである。

だとすれば……

欲求云々以前の問題で

どういった形が理想なのかを模索して決断するという手もありそうなのだが

そうした知的な政策に感情というものが、本能というものが適応しようか。

 

今私にはメロディがあり

その波長に合ったリズムがあり

常に快を求めて行動するのだ。

理性よりも感性なのだ。

つまり、動物的本能に従って他者を傷付ける行動に出るのだ。

それは、やめようとしてやめられるものではなく

結局人は誰かを傷つけながら生きていくしかないのだ。