プーブロ

日々の出来事から考えたことや、ふと思いついたこと、主に、そうした頭の中の出来事が吐露されることと思います。アウトプットの場ですね。

全く何も求めずに他者と関わることは不可能だと思った。

当たり前じゃんとおもわれるかもしれないが

私は不覚だった。

私もちゃっかり求めているから

落胆したり怒ったりするのだ。

求めてはいけないとは思っていないが

なるべく求めないでいたいと思っていた。

でもやっぱり求めてるんだよ。

私は求めてる。

求めない自分になりたいのに

実際は求めているものだから

そのギャプがストレスになる。

やっかいなやつだ。

上を見て、何か私でない何かになろうとしているのか。

ありのままでいいなんてよく聞く言葉ではあるけれど

ありのままを認めるというのも難しい。

やはり人は向上心を持つものだとも思う。

向上心を持って、上を見る自分というのもまた

ありのままの自分であると言えるではないか。

まぁ、体調がすぐれないと

こうしたことをうじうじと考える習性なのかもしれない。

そして自分の中におさまりきらないものだから

こうやってアウトプットせねばならない。

先日、心理検査で、自分をどのように思うかという質問に

やっかいだと思いますと答えた。

そう、これからもやっかいを生きて行くんだ。

これはもう仕方のないこと。

今日は耳下のリンパが腫れて痛いから

だからやっかいなんだ。

「人に尽くす」ことと「人に求めない」ことは私の頭の中では両立しない。

多少、複雑な話になる。

あくまでも、私個人の価値観なのであって

自分と異なる故の批判は遠慮されよ、と申し述べておく。

 

まず、人を含む動物の行動は全てにおいて自分のためのものであると私は考えている。

自分のため、つまり必ず自分に利があるからこそ人は行動するという行動の原理の話である。

これは決して私のみが勝手にほざいていることではなく

心理学領域の応用行動分析(ABA)では機能分析を行うが

ある行動に対する先行事象と結果事象を見て

先行事象よりも結果事象が本人にとって望ましい場合

その行動が増えるというものであり

これは人の行動を説明するものである。

上記の私の言葉は、そのことを述べているにすぎない。

 

つまり、人に尽くすという行為を考えてみても

自分に利がなければ人はそれを行わないのである。

この、利というのは利益の利であるが、もちろん物や金のことだけではない。

誰かにプレゼントを渡す場合

その人が喜んでくれることで自分も嬉しくなる。

つまり、それが自分の利であり

それがあるからこそ、その人にプレゼントを渡すのである。

そしてこの場合、自分はその人が喜ぶという姿を求めていることになるのだ。

何も求めないという場合、そもそもその行動は生じない。

 

これが私の理屈である。

故に「人に尽くす」ことと「人に求めない」ことは

私の頭の中では相反するのである。

 

そのためか、私は人に尽くすということが良く分からない。

全ての行動は自分のためだからである。

たとえ相手に喜ばれようとも

たとえ感謝されようとも

喜ばれたり感謝されたりして嬉しいのは自分なのだ。

つまり、自分のためなのだ。

 

だがしかし、感謝されることをはなから望むと行動できない。

感謝されるという見返りを期待して行動すべきか?という新たな疑念が生じる。

だがここに矛盾があるのだが

相手にプレゼントする場合

喜んでもらう期待があるからこそ、その人の喜びそうな物を選ぶ。

そうして選んだものを渡すわけだから、やはり喜んでほしいと求めてしまう。

その結果、喜ばれたら安堵するかもしれないし

思ったほど喜んでもらえなかった場合は落胆することになる。

 

次回のプレゼントはもっとリサーチしようと思うか

もうプレゼントなんかするもんかと思うか

それはその人次第だろう。

 

そんな複雑なことを考えてしまうから

私はプレゼントが非常に嫌いなのだ。

渡すのはまだいい。

自分の行動だから、相手に反応を求めず

渡す行為を遂行することを目的とすれば良い。

その場合、無事目的遂行したという自分の利が生じる。

 

貰う場合はやっかいだ。

まず、どういう意味合いの物かを考えてしまう。

その物が自分にとって必要か否かを考えてしまう。

どのように反応すべきかを模索せねばならない。

そしてたいてい、嬉しくもないのに喜んだふりをする。

私はその「喜んだふり」行動によって相手とのトラブルを避けようとしている。

 

ともかく「人に尽くす」という言葉それ自体が

私には「おせっかい」やら「思いあがり」に思えてならない。

尽くしていると自分で思っていても

相手の心の内は分からないのだ。

もしかしたら私みたく

喜んだふりをしているかもしれない。

それでも満足感が味わえるのならば

それはそれで良いのかもしれないが。

タコワサがうまい夜

30超えたとき、ナスとタラコをしょくせるようになった。

食せるどころか好物になった。

40越えた昨今、ワサビやらカラシといった

辛いものがおいしいと感じるようになった。

なんと今私はタコワサを食べている。

こんな気持ち悪くぬるぬるしたものと思っていたタコワサ。

あー辛い。

でも日本酒には良く合う。

誰がこんなもの発明したんだろう。

すごい人もいるもんだ。

この分じゃイカの塩辛もいけるんじゃなかろうか。

あー辛い。やっぱ辛いわ。

今日はこのくらいにしておこう。

疲れる前に一日を終えたい。

どうも、疲れやすい。

年のせいか、生活習慣のせいか。

人と比べてどうとかは分からないが

人と行動していて

大抵先に疲れる。

疲れるというのはストレスを感じた結果事象だと思っている。

気疲れと運転疲れで今日は帰宅前に頭がいかれた。

やばいって思う。

イライラしてくるのだ。

そうなると、一緒に居る人に対してむかついてくる。

これはまずいと思い始める。

とにかく、人に嫌味や悪口を言ったりしないために

「疲れた」と報告する。

無表情の私が「疲れた」と報告すると

これは早く帰宅せねばと思ってもらえる……と有難いのだが。

何かわけのわからないことを話されたらもう

私の頭には入らない。

とにかく帰宅を急ぐのみなのだ。

早く帰らねば。

それのみ思う。

だって、人が何か言えば言う程

むかついちゃうんだもん。

勿論不本意に。

頭の中で、何やら良くない物質が放出されるのだね。

そしてそんな日私はこうやって

書いて、書いて、発散するのだ。

直接言えないイライラを

アウトプットせねば今日を終えられない。

そんなわけだから外出には気をつけなければならない。

なるべく早く帰宅。

二日以上友人知人と会うのは極力避けよう。

そうやって、自分と対話しながら

ストレス具合を計りながら

疲れる前に一日を終えたい。

自分の頭が働かない。

私は以前は、あまり人の言うことを聞かなかった。

我が強いのだ。

人の意見より、自分の思い。

だけど最近、他者の意見をよく聞くようにしている。

それは、出版やクラファンという自分にとって初めてのことをするから。

経験者の意見を素直に聞いてこそ成功があると考えた。

しかし、様々な意見がある中で私はその全てを鵜呑みにしているに近い。

そうすると、自分がだんだん消えていくのだ。

いざ、どうなの?とふられたときに答えられない私になってしまっている。

周りの意見に振り回されてしまっている状態なのだ。

自分を出したら、周囲と反発してしまうんじゃないかって恐れている。

だけど、今私はどこにいるの?

本当の私はどこにいるの?

 

誰かに相談して

その内容をうまく自分に重ねることが出来ないでいるのだ。

つまり、中庸が困難なのだ。

私かあなたしかなくて

意見の良いところ取りが難しい。

私は、自分で決断しなくちゃならないのに。

他者にそれを委ねている事実を知った。

 

相手が喜ぶと思って取った行動が

思い通りにはいかないのだ。

逆に、こちらに決断を迫られる。

 

私の独自のやり方を批判する人は多いだろう。

だけど、批判を恐れて八方美人にはなれないのだ。

少し、時間をかけて考えなくてはならない。

他者の意見を無視して

私は私の思いを見つめなおさねばならない。

非特異的T波異常

心電図にて所見を認めます。

循環器内科を受診してください。

 

このように記載された特定検診診断結果が届いた。

ここ数年、再受診を促す結果を目にするようになったのは

年のせいでよくあることなのだろう。

さて、これなるはいかなるものかと検索すれば

特に心配ごとではない様子。

更に友人数名も同じ所見を頂いた経験があり

放っておいても問題無いというコメントも頂戴した。

……がしかし、受診してくださいとあるのだ。

この一文が、私を行動に導く。

友人も、そう書いてあるなら行った方が良いと言った。

 

別件のついでに受信しようと受付に申し出たところ

循環器内科は火曜日か水曜日の午前しかやっていないとのこと。

しかも、混むのでかなり待つのだという情報を貰う。

更に、診察は朝9時からだが、受付は6時かららしい。

はぁーそんなに人気なのか、と私は想像した。

満員御礼の待ち合いを。

朝6時かぁ……

私は今日、朝の実家の家事を断って、4時起きで支度した。

6時、とまではいかないが、7時半には病院に到着した。

さすがに静かだ。恐らく、後ほど混むのだろう。

そう思い、受付を済まし、暗い廊下を通って心臓センターへ。

私は一番乗りだった。

誰もいない待合で、読書タイムが始まった。

時折、うとうとしながら……

1時間余り待った頃、ようやく1人の看護師がやってきた。

「今日は初診はやってませんよ」

1時間以上待った人にかける言葉ではない。

私は最初、何を言っているのやらと首をかしげた。

「先生来られないんで、今日は診察できませんよ。」

「え……」

私は言葉を失う。

朝の家事を断り、4時起きし、15分歩いて、1時間以上待った、その結果が「帰れ」ということらしかった。

看護師は、あたかも自分が被害者であるかのように電話口で怒っている。

事務社員と思しき電話口の相手に……

「今日先生いないんだから断ってくれなきゃ困るじゃない!えぇ?だって1人今上がってきてるから!」

いやぁ被害者はあなたではなく、恐らく私だよ。

そう思いながら、私はその場を去った。

 

先日引いたおみくじに

「病気、油断すると危ない、医者を選べ」と書いてあった。

その「油断すると危ない」を気に掛けて赴いた受診であったが

どうやら「医者を選べ」を気に掛けるべきだったらしい。

 

さて今日は、午前の時間をプレゼントされたのだと捉えることにしよう。

おしゃべり会!?

かんもくネットのおしゃべり会なるものに参加してきましたよ。

かんもく?

そう、私はかんもくだった。幼少期。

かんもくは病名ではなく、障害名でもない。

状態だから、誰かに診断されるものではない。

そう思っていた。

 

さて行ってみると、ほとんどが親御さん。

更に、おしゃべり会という雰囲気ではなく

集団相談会?みたいな。

 

私は自分について10分語ったのだけれども

その話を聞いて事務局長さんは微妙ですねと言った。

私の症状が軽いらしいのだ。

グレーですか?と聞いたら

グレーですねと言われた。

 

どうも、私はここでも排除されてしまった。

だってね、今日は何故参加しようと思ったんですか?って聞かれた。

・・・私だけ、聞かれた。

皆さんのお役に立てばと思って・・・

なんて言えたら良かったのかもしれないが・・・

咄嗟に口から出たのは「メールが来たから」

「それに、クリスタルタワーかっこいいなーと思って」

どうやら私は解答を間違えたのかもしれない。

 

まぁいい。

おしゃべり会とはどうも、集まりの後に行われるランチのことだろうか。

集まりの3時間はやはり、相談会に他ならない。

保護者が悩みを喋って、事務局員が答える形式。

それならそうと書いててくれたら良かったのにーと愚痴を言いたくなるが

まぁ仕方ない。

これも勉強なのだ。

 

それにしても皆さんの暗い表情。

私は向かう電車で読んでいた本に

たまたま笑顔の効果みたいな記述があったため

意識して笑顔で出向いたのにな。

それが逆効果だったようにも思う。

他の皆は悩みを抱えるかわいそうな人で

私だけ能天気なイメージを醸し出したようだ。

 

私だって苦労したぞ。

今でも引きずる部分多々あるぞ。

だけれども、笑顔がそれを全て打ち消すのだろう。

 

本当に皆さん、さえないのだ。

私には子どもがいないから、子育ての悩みは分からない。

だけど、子どもがいるんだからいいじゃないかと言いたくもなる。

 

あと、やはり全体的な印象としては

社会規範にとらわれ過ぎていないか?ということ。

私がとらわれなさすぎかもしれないが

就労が心配とか

自立できるかとか

つまりは結局社会に合わせなきゃと思っているっぽい。

いいじゃん、就労しなくても。

いいじゃん、自立しなくても。

人生短いんだから、いかに充実させるかをトップに考えるべきじゃないか?

そう、私とは価値観があまりにかけはなれていると感じたものだから

必要最低限の発言以外は相槌程度に控えました。

 

事務局長の口から「行動療法」とか「ABA」の言葉が聞けたのは

唯一の救いかな。

「心理士」という肩書が、一体どういう心理士なのか分からないけれども

ひととおり、色々と勉強されているような風であったし

楽しむこととか好きなものを活用するとかいった

子どもへの支援をアドバイスする内容は非常に良かったと思う。

 

・・・と、何故私が上から目線で評価してしまうのか。

恐らくはこういう部分が良くないのだろうね。

 

ともかく、私の居場所はここでもなかった。

仕方が無いので私は「一匹狼」に所属しようと決めた。

 

人間誰しも孤独なのだ。

孤独が怖いから群れたがる。

だけれども私は、そこを敢えて孤独でいるのだ。

いや、どこも入れてくれないから仕方ないだけだけどね。

いいんだ、私は一人でも強く生きるから。