プーブロ

日々の出来事から考えたことや、ふと思いついたこと、主に、そうした頭の中の出来事が吐露されることと思います。アウトプットの場ですね。

私は私個として確立せなあかんわ。

今日はそんなこと思った。

だってそれが何であれ依存していてはその都度揺さぶられて右往左往喜怒哀楽せなあかんことになって平成でいられへんくなっている。

そう今がまさにそうであるからこそ、そんなことを考えてしまう。

 

情けないが弱い。

弱いね。

自己に没頭しきれないんだね。

故に環境に左右させられる。

環境恐るべし。

 

すべきことが出来ないのはこまるのだ。

ふりまわされては困るのだ。

もうこうなれば、何もかもから離れてみるしかないのだろうか。

 

健気やわ私。

行動をするかしないかの選択肢があるならばまずするでしょう。

羞恥心とか、相手がどう思うとか、考えだすと行動できないようなことであっても

そこを乗り越えて行動することにしているのだ。

何故ならば、行動せずに結果が分からないということが私にとって最も後悔することだから。

そして何かしら行動することになって結果があって、そこに少々の落胆を覚えたりするのだね。

それはやはり、何かしら行動するにあたっては、何かしら期待してしまう自分がいるせいだ。

期待は危険だね。

何も求めなくったっていいんだよ。

本当は、自分が行動することを目的にすればいい。

そうして行動できているんだから、それでいいじゃないか。

人に尽くすと思って行動した結果がイマイチでも

そう思って行動じた自分を自分で褒めてやればいいじゃないか。

そう、私頑張った。

よくやったよ。

それでいいんだ。

自分に素直に生きればいいよ。

宮沢賢治みたく。

中原中也みたく。

想う技術

私には得意がある。

どこにいても、遠く離れていても

「想う」ということ。

相手のことは見えないから分からない。

だけど想いは伝わるし、分かるのだ。

想いという感情には質量があると私は考える。

現時点で人には理解できていないだけであって

科学的に脳内の神経伝達物質とホルモンの具合で感情が生成されているのならば

それが体外へ放散されて遠隔までも飛んでゆき相手に伝えるということが起こり得る

そんな風に私は考えている。

そう思うからこそ「想う」力を信ずる。

更には他者の想いも受け取れる。

時にそれは文字として現れる。

文字としてというのは、もしかしたら私の場合だけかもしれないが

必要な時にやってくるのだ。

それは求めなくとも自然とやってくる。

決して不思議なことではなく

遠い未来には科学的に証明されるだろう。

とかく私は想う。

誰かの健康を願い

誰かの幸福を願い

そして誰かの心を願う。

喪失感をひしと感じられるか

実のところそう言いきれない本音がある。

まだ、期待する自分がいるのだ。

ぐっと、喪失感を感じてみたい気もするのだが

なんとも明確な答えが欲しいのかもしれない。

私は、その答えを求めているのだろうか。

 

恐らくは、多分は、今がいちばん良い時なのかもしれない。

しんどいし、切ないんだけれど。

そういう気持を感じられるっている時はそうそうないものだから

希少価値があるのだね。

 

もう、実のところ不安で仕方ない。

なのに期待しちゃうもんだから困ったね。

 

だってミスチル聴いてたら幸せな気持ちにさせてくれるんだもの。

それが私とは全く関係無くとも今は分からないんだもの。

だって私はバカだよ。

何も分からないのに空想してにやけてるバカだよ。

 

きっと痛い目に遭う。

遭うんだねー。

怖い気もするけれど

何故か今は幸せでいたいのかな。

勝手に空想して自分をときめかせていたいのかもしれない。

 

やっぱ喪失感は無理だわ。

今の私は妄想かもしれないけれど

想い込みが強いだけなんだろうけど

期待しないではいられないらしい。

そんな状況に居て喪失感なんて。

 

まだ早いの。

今はまだ、切なさを感じさせて。

幻想でもいいや

例えば今あるこの幸福感の所以が自己の幻想から生ずるものであるならば

いやほぼそういうことなのだろうけれども

それならばそれでいいやと思える今の心境は

何故かどことなく物悲しいが

それも含めてその切なさと共に抱き締めて自分なのだから

もうどうしようもないっていうことなんだ。

 

幻想でもいいや。

だって幻想でしかないんだもの。

メロディだけを聴いて、その深いリズムを聴いて、それだけでいいじゃないか。

中身はいらない。

切ない中身なんて今の私には不要だもの。

 

だって幻想でないと、他に何に幸福を感じれば良いのか。

自分に素直でいられなくとも

素直でいられない自分も本当の自分なのだから。

だから今は自分を救うためにこれは幻想だと、そう自覚して

更にその上でそこに酔ってしまえばいいじゃない。

後先考えることなんて、これまでやったことないこと急に出来るわけないんだ。

だから今はただ、幻想に酔わせてね。

私は迷惑はかけないからね。

決して邪魔はしないから。

なるべくなら静かにフェイドアウトするように心掛けるからね。

 

だからまだ、今は幻想を見させてね。

感情と理性のせめぎ合い

理性を勝たせたいと考える脳はある。

だが、感情が勝ちたいと思う脳もある。

過去のデータでは概ね感情が勝ってきたような気もするが

今回ばかりはそううまくいかない気もしているのである。

 

状況によりけりでその都度優勢が変化する。

感情が優位に立ちたい気持ちもあるが

状況は極めて理性有利なのだ。

そうなれば行動は理性い従う他無くなるわけで

だってプライドやら羞恥心やら恥辱なんていうわけのわからないものまで顔をみせかけるわけだから

私は意地を張って理性的な行動をとるしかないのだ。

 

この場合中庸などというものはなく

必要すらなく

とかく極端に行動は分かれる。

 

そうして私は感情を望みながらも理性の行動をとって悲痛に悶えるのだ。

客観や俯瞰や鳥瞰が主観に変わるとき

結局のところ人は自分フィルター無しに物事を見ることは不可能なのだ。

いくら客観性が大切だとか言ってみたところで

自分が考える客観には自分フィルターが付いている。

そもそも客観性がそんなに重要か?

他者の視点になってみて他者の心が分かるとでも言うか。

他者の視点で物事を捉えて自分の行いを正すのか。

そこに何を求める?

 

いらない。

そうした余計な詮索は全くもって余計なのだ。

私は私でいいじゃないか。

主観に戻って主観の自分を楽しめばいいじゃないか。

人の目を気にする必要はない。

人の目を気にする暇はない。

他者心理はどこまでいっても他者ではなく自分フィルターに見る他者でしかない。

分かる訳がないのだ。

だから、自分の視点で十分ではないか。

一生懸命に自分に正直に、そのままの自分で進んでいこうよ。