プーブロ

日々の出来事から考えたことや、ふと思いついたこと、主に、そうした頭の中の出来事が吐露されることと思います。アウトプットの場ですね。

遅々として進まないからこそ時間が必要

私に無いもの。

自力経済基盤。

そこを確固にせねば何も始まらない。

自信を持って行動できない。

自信を持てる自分になるために

皆が遊んでいる今

根を詰めて頑張らねばならない。

 

夢に向かって楽しんでなんて風にはいかない。

全然いかない。

頭抱えることばかり。

無理ちゃうって思うことばかり。

それでもやらねば先は無いから。

進むしか私には選択できないから。

 

皆が楽しんでいる今こそ

私は苦しまねばならない。

一人孤独に、戦うのだ。

泣け。悩め。追い込め。

そのくらいしなくっちゃ成功は無い。

 

そう、私は孤独に打ち込まなくっちゃ。

誰にも邪魔されず

一人っきりで

こんな心の安住他に無い。

寂しさよりも安心が優位。

そして自分のペースで作業できるのだもの。

そう、誰にも急かされず。

 

漸く、何が必要なのかは分かったので

今から物語を組み立てていこうっと。

私の心の救いの場所、それがプーブロや。

あきまへん。

何やら変な脳内物質に支配されて

立ち直りたくっても落ち込んでいく。

つい、泣きたくなってしまう。

色んな物事を全てかき消して

やるべきことに没頭して逃げようと思って

机に向かってみるも頭が働かない。

いらないことばっかり考えようとする

困ったもんです。

私はできた人間ではないから

このままで生きていかなくっちゃならないんだけど

できた人間を羨むこともないし

できた人間になりたいとも思わないのだけれど

できた人間の受ける待遇と

できない私の受ける待遇に

しょうがないと思いつつも

どうやら不満があるらしい。

今私は

嫌われ者の第一線

そんな風に感じているところから抜け出せない

何事も仕方がない。

仕方がないということは

堂々と生きることとは異なる。

仕方がないままに悲しい。

そう、悲しいんだよね。

傷付く。

悲しいのも仕方がないし

傷付くのも仕方がない。

どう回避するかは周囲を選別するしかない。

変わらぬ私を受け入れられない人は去っていく。

私は悲しいけれど追いかけはしない。

ご恩だけ手渡して

そして去っていく。

このままの自分で生きていくということは

そうしたことを全部受け入れた上で

泣いて、悲しんで、そして復活するというパターンを知って

繰り返していくということなのかもしれない。

なんだか切ないけれど

最終的にはしょうもないこと。

人はただ

生まれて

生きて

死ぬ

それだけだから。

明日の朝、またリセットします。

さて、今からデスクに集中だ。

父の、言うことやること全部嫌いや。

昼食に、冷やし中華とお寿司とカラアゲを用意した。

それを見た父が第一声

「これは夜にまわしたらいいやん」

お寿司とカラアゲについてである。

次に冷やし中華を指差して

「これだけでも食べられへんのに」

 

久々に食卓を一緒にしようとしたらこの始末や。

ちゃうやろ。

もっと他にかけるべき言葉があるやろが。

美味しそうやなとか、よう言わんのかい。

美味しそう思わんのやったら食うなや。

怒りが込み上げるのを我慢して

「……残してええんよ」

優しく言ってやった。

 

食事って量的な問題だけちゃうやろ。

組み合わせって大事やん。

冷やし中華にお寿司にカラアゲ

最高のコンビネーションやん

私はそのコンビを美味しいなぁと思って味わった。

 

ふと、父の手がカラアゲに伸びた。

食うなや!

内心思ったけど我慢。

いつの間にか、お寿司も一切れ無くなってるやん。

結局食うとんやないか!!

なんやねん、いちゃもんつけたいだけかい!!

腹立つが、言わない。

言ったところで不穏が増すだけやん。

面倒は余計に腹立つって分かってるから。

 

ただ、もう二度と一緒に食卓囲むかこのくそやろう!!

そしてこの感情をちゃんと残す。

ここに、残す。

 

夕食用に作りかけた酢豚と粕汁の具材全部捨てたった。

ムカつくから、全部捨てた。

発散。

ポイポイ。

もったいない?

作って時間無駄にする方がもったいないわ。

ついでにタッパーもポイポイ。

透明容器もポイポイ。

もっと何でもいっぱいポイポイしたかったけど

さすがに炊きたてごはんはお百姓さんに申し訳ないからラップして冷凍。

 

もう明日からめっちゃちょっとしか作ったれへんねん。

足りひん言うても知らんわ。

お菓子でもアイスでも食うとけ言う話や。

でもって糖尿なったらええねん!!

甘い煮物ばっかり作ったるわ。

毎日スキヤキしたるわ。

アホみたいに気いばっかりつかって全部裏目に出ていらんことしい

ほんま癪に障る。

 

やっぱなんとか、引退してもらう計画練ろうっと。

他者を攻撃しちゃう人は弱っているんだと思う

自分の経験から。

イライラがやんでくれないとき

私はイライラの原因を他者に求めたがる。

あんなこと言われたから自分が落ちこんでしまった。

イライラがおさまらないて風に。

そういうとき、私は笑顔になれない。

優しく関われない。

ポジティブな発想ができない。

とても辛い状況。

何かを言われたことがたとえきっかけであったとしても

そういう自分が他者と関わるとより良い関わりができない。

もしかしたらイライラを伝達させるかもしんない。

油断すると、ぶちまけることになったら大変。

そんなわけでなるべく人と関わらないようにする。

迷惑かけるし

迷惑かけてると思ってしまうし

迷惑かけてる自分がより嫌いになっちゃうし

そしたら余計に落ち込むじゃんね。

 

自分が他者と同じとは思わないにしても

他者を攻撃する人は、若しくはそんな状況なんじゃないかと思ってみたりする。

弱っているから自分をなんとか保ちたくって

他者を見下すことによって

攻撃することによって

少しでも自信を回復したいのかもしれない。

周囲からみたら

もしくは正常な際の自分からみたら

はなはだばかげた発想なんだけど

人は弱っている際には

そうしたばかげたことをしてしまうもんなんじゃないかと思うのです。

なにせ弱っているときは心も器も小さくなってるし

視野も狭くなってる。

 

だから私を攻撃して私を苦しめる人がいるとしても

その人自身が弱っているんだろうと思うんだよね。

それにしても、他者にそれを向けるタイプの人には困っちゃうんだけどね。

最も、私がそれに応えて確実にへこんでしまうことが

私に対する攻撃行動を持続させちゃうんだろうけど。

 

私には盾が必要。

攻撃から身を守る盾が。

私は、本物になれるだろうか

私が安いのは自分に自信がないから。

「あんたの話ではお金とられへんわ」

ひどいこと言われて真に受けてへこんだというのは本当ではあるが

そんな言葉気にしなければ良いことなんだけど

気になってしまうのはやはり

自分で自信が持てないから。

だから、そんなこと言うやつとは離れて

まずは自信をつけることが大切。

 

「あんたの……云々」は彼女の基準でしかないやん。

それが100歩譲って一般的であったとしても

私の話の価値とは何等関わりのないこと。

私の話は私の話を聞きたい人が聞いたらええし

私の書いたものは私の書いたものを読みたい人が読んだらええ。

価値とは常に相対的なものだから

彼女にとって価値がないというまでのこと。

放っといたらええ。

 

さて私は本物にならなくっちゃと思う。

何故ならば、本物であれば高い値をつけられるから。

では、本物とはいかなるものか?

例えば他にないとかいう希少価値。

例えば求めたくなる付加価値。

そうした視点で考えたら私は価値あるやん。

自分でそう思えてきたぞ。

本物になれる素質はある。

ただそれを生かせるかという部分。

 

行動しなくちゃならないわけだけど

一体何をすべきか。

今私はどういう行動に出るべきか。

せっかく時間にゆとりを作ったのだから

じっくり考えて確実に行動に出る!

他者に認められていないと感じるとき私は歴史に助けを求める

人が社会で生きていく上で他者との関わりが重要だと認識する。

そしてそこに「認める」という何とも不可解な条件も必要であるらしい。

私はそれを体験的に感じている。

人は人。

自分は自分。

もちろんそうだ。

そして他者の言うことなんかより自分がどう思うかが大事だということも最もだと考える。

だがしかし、そう単純でないのが人間なようで。

自分の意見を誰かに認めてもらいたいという「承認欲求」なるものが備わっている。

その承認欲求を得たいがために自己の意見を曲げる人も中にはいるかもしれない。

若しくはそのことに気付かずに他者の意見を自分の意見だと思い込んでいる人もいるかもしれない。

だが、本来は自分の本音を聞いてもらって賛同されたい。

多数に賛同されるであろう意見なら胸を張って演説できるだろうが

非難されるのではないかと思う事柄については必然声が小さくなる。

もちろん、だれがそれを喋るかということで聞く人の聞き方も変わってくるだろう。

何か偉い学者の言葉ならば、聞いた人が理解できなくても自分の理解力が足りないせいだと思うかもしれない。

だが、同じことを何の肩書きもない人が言えば「何言ってんだこいつ」と冷たい目で見られる。

 

さて私は後者の人物。

つまり何の肩書きも無い馬の骨。

であるにもかかわらず、およそ常識を逸脱しているかもしれない哲学を考えてみたりする。

分からない。

どう思われるかは分からないが、他人に口外する勇気を持ち合わせていない。

だってめっぽう批判に弱いもんですから。

怖い怖い。

そんな折にサルトルに出会った。

安吾に出会った。

そして良寛に出会った。

彼らは私の友となった。

私は絶対批判しようのない彼らがいるから

彼らがそれぞれ自分の哲学で私を応援してくれているから

私は救われた。

共感できる人がいた。

しかも有名人だ。

皆、その時代で周囲の人に批判されることもあっただろう。

彼らは私の代わりに批判されてくれた。

私も、もっと勇気を持てたらいいんだけど。

サルトルみたく演説できたらいいんだけど。

だけど私には書くことができる。

だからやっぱり私は私の哲学を

まずは書いてまとめてみようかな。

吐露。

結局のところ「本人主体」とは何かということを考えあぐねていたのだ

 

まず、専門職をいきって「これが正しい」と豪語するやつが嫌いだ。

それはまさしくそいつにとっての本人主体でしかないからだ。

 

例えば認知症で歩くのもおぼつかないおばあさんの介護についてが問題で一家に専門職が支援に入ったとする。

誰がどう見てもそのおばあさんが「本人」であり、おばあさんにとっての最適を「出来得る範囲」で確立するのが輝かしい法と考えるだろう。

この「出来得る範囲」というのがみそで、これは基準があるわけでなく家庭によって千差万別。

ここで「考慮する項目」をどういう視点でどれだけ用意できるかが専門職の腕の見せ所ではないかと思う。

ここで愚かな専門職は「一般的にはこう」ということを言う。

素人が納得しやすい誘導材料である。

腹立たしい。

事例は全て、個別だ。

おばあさんがどういう環境でどういう風に育ってきたか。

何が好きで何が嫌いなのか。

家族構成と関係性はどうなのか。

そして関わる人それぞれが何を求めているのか。

そうしたことを綿密に見ていかなくては「本人主体」は確立しないと私は考える。

そしてそれは変化する。

最初はデイサービスを望んでいたけれど、やっぱり家族介助の自宅入浴がええわってなるかもしれない。

そこで「自宅は介助がしんどくなるからデイがいいですよ」と勧める専門職はうざい。

自宅がええって言うてるんやから、せめて勧めるとしても訪問介助でしょ。

専門職の経験による知見で「将来こうなるだろうから」という懸念を家族に押し付ける行為が腹立たしい。

それで納得する家族もいるだろう。

専門職に助言されたい人は多いかもしれない。

そういう人はそれでいい。

そうでない人もいる。

求めていないのに関わってくる専門職は特にうざい。

とにかくうざいのだ。

うざいと思われるような言動を専門職がするなって蹴っ飛ばしてやりたい気分なのだ。

 

はぁ、吐露。