プーブロ

日々の出来事から考えたことや、ふと思いついたこと、主に、そうした頭の中の出来事が吐露されることと思います。アウトプットの場ですね。

自分を正確に捉えるということ

例えばダイエットについて考える。

まずは自分の特性をとことん書き出す。

内面についてのこと。

何が好きで何が嫌いか。

得意と苦手も。

波があるのか、どのくらいの周期でどのくらいの振り幅か。

行動の特性も。

感情の起伏も。

様々な内面を洗い出してそれを理解しなくっちゃ行動の継続に繋がらない。

 

それは、あまりにも様々な場面がありすぎて書ききれないかもしれない。

とりあえずは、今書きだせることを書き出す。

そして行動の計画に移る。

 

時間の経過と共に思い出したことがあれば逐次加える。

そして、行動は段階的に。

少しずつ満足できるように。

自信を持てるように。

 

そこに科学的視点を加える。

ダイエット。

私の場合、太ももとおしりの肉を減らしたい。

そして総合的な体重を減らしたい。

特別な運動はやらない。

だって続かない。

ならば、総カロリーは少し減らさねばならない。

だけど、満足感を減らすわけにはいかない。

食事に満足できないと、ストレスで全体のバランスが乱れる。

それは、精神的な乱れ。

精神的な乱れは私にとって一番避けたい事柄。

もう、何にも出来なくなるし、苦しい日々がやってくる。

 

自分と相談しつつ

他者と比較せずにすむような環境をつくり

自信が創出される取り組みを積み重ねる。

 

ダイエットはまだいい。

自分のみに着目すればいいから。

難しいのが事業。

仕事。

社会と関わること。

自分だけでは済まされない。

社会を見て

現状を正しく把握したり

未来を予測したり

その上で自分にできること

持っているものを駆使して収益につなげ

更にそこから自己満足や自信にも繋がらなければ続かない。

考えることがあまりにも多い。

更に、それも逐次変化する。

 

まずは、自分について。

自分が行動して生きていくのだから

生きていけるために行動する。

より良く生きるために。

考えすぎず、行動する。

その黄金比は、思考3:行動7らしい。

テイカーの役割って必要やんって私は思う。

巷ではGIVEこそ素晴らしいと誰もが言う。

見返りを求めるな、人のために、与えろと。

 

私は正直、かなり批判的に見ている。

 

与える人は、与えることによる満足を得ている。

その満足を得るためにGIVEするのだというのが私の考えだ。

そして、それ自体に批判はしない。

自分のために与えるのだと理解して与えたい人は与えたらいいと思う。

で、概ね与える人はそう理解しているはずだとも思う。

 

つまり、見返りは必ず求めているし、求めなければならないと思う。

見返りとは与えた相手が満足することである。

与える人は、相手が満足してくれなければ与える意味がないと思うだろう。

相手が満足するために与えるのだから。

だが、相手が与えられて不服そうにしていた場合、与えた人はどう思うか。

 

なんで与えてやってるのに不服やねん。

これは話にならない。

そもそも与えてはいない。

GIVEでも何でもない。

 

あれ、間違えたかな?

この人がこれが欲しいだろうと思ったのだけど、自分の勘違いで、本当は別の物が欲しかったのかもしれない。若しくは、これは欲しいのだけど、僕から渡されたくはなかったかもしれない。はたまた、貰うこと自体望んではおらず、自分で選んで購入したかったかもしれない。申し訳ないことしたな。返してもらおうか?いや返ってそれもおかしいかな?

考えすぎかもしれないけれど、それだけGIVEって難しいことやと思うねん。

 

相手が求めているものを相手が求める手法によって相手にとってより良いタイミングで与えることが、はたして完璧にこなせるであろうか?

 

ここで、実はGIVE&TAKEでキーになるのはGIVEよりむしろTAKEではないかと考える。

 

何かをGIVEされたとする。

物かもしれないし、情報かもしれないし、それは些細なことかもしれない。

内心、あーこれ違うんだよなーと思う。

実は同じもの沢山持っているとか、その情報知っているとか、それ、欲しくないとか。

だけどGIVEする人はGIVEして喜んでもらうことを求めているのだから、それを拒否したり嫌な顔したらせっかくの好意を無駄にする。相手を傷つけてしまうことになる。

そうした一切を踏まえて喜んでみせるか、若しくは丁重にお断りするか。

その技術が問われるわけだね。

 

それが困るGIVEでないならば、演技でいいから過剰に喜べばいいと私は思っている。

この対応はひとそれぞれだろうけど、あくまでも私の場合。

心遣いに感謝する感じやろか。

まぁ相手にもよるけどね。

迷惑なGIVEならば、嘘でも何でも使って断ろう。

 

大概、人間関係が良好ならば何をGIVEされても嬉しいし、その逆も然りなんやね。

 

さて、結局、あるGIVE&TAKEが起こったとして

ギバーは与えてやった優越感と喜んでもらえただろう満足を得、本当に喜んでもらえただろうかという疑念を抱く。

イカーは、ギブされたものが求めているものだった場合の満足と、満足させてやった満足を得、求めないギブだった場合のめんどくささと与えられる弱者になる。

両者にとっては、コミュニケーションを図れたという良い面と、めんどくさい人間関係に神経使うしんどさがまとう。

 

もちろん、どう考えるかはそれぞれ。

でも、どう考えるにせよGIVE&GIVEは成立せんやろ。

うまいこと受けてあげるテイカーの役割こそ重要やと思うんや。

行動せよ!と自分に言い聞かす

今は誰もが無謀だと思うインパール作戦

最近では誰もが無駄遣いだと憤ったマスク2枚配布。

 

せやけど私は日々

自分の無知と愚かさに呆れる日々。

目標のために計画を立てて

やるべきことを書き出して実行する。

翌日、重要なことを忘れていたと気付いたら

他にも重要な何かが抜けてはいないかと考える。

 

良いように考えたならば

全ての行動は無駄ではなく

そこから得るものが何かあるのかもしれない。

ただ、確実に時間は過ぎていく。

 

前進したいと気ばかり焦る。

そうなると様々悪影響するものだから

思考3:行動7の黄金比を思い出す。

さあ、行動せよ。

とにかく動け。

考えずに予定をこなせばいい。

それは無駄になってもいい。

 

そう、こうやっていちいち文章にせねば私は悩みくさりやがる。

ふぅー。

溜息がこぼれる。

 

全ての自分のやっていることが

こんなことしている場合ではないと思ってしまう。

計画して実行していても

間違っているのではないかと考えてしまう。

 

そもそも、間違いって何だろう?

出来るなら、快く行動したいのだが。

その方がはがかどるし、幸福だろうに。

わくわくしやなあかんのんけ?

吐きたい。

本音を吐露したい。

それでここにやってきた。

 

人生は苦行や。

生病老死や。

四苦や。

それがベースや。

そう言われる方がしっくりくる。

 

そりゃ私かてわくわくするときもある。

そんな時は幸せいっぱいで

人は快楽のために生きるんやと思う。

 

せやけど両者は必ず共存するから

幸福ばかりでは決してない。

 

せやのに表面的にポジティブを装っている人がいかに多いことか。

ちゃんと、裏に安全地帯があって

吐露する場があって

慰められて癒される。

そうした場所をもっているから明るく振る舞っていられるのだろうか。

 

辛いときは辛いって正直に言える方が良くない?

そこは、慰められたいのではなくて

辛いときにわくわくなんて言ってられへんやろって。

なんかさ、腹立たしく思ってしまうのよ。

 

辛いときでも笑顔で偉いねーと

そんな風には思えないのよ。

 

辛けりゃ辛い

しんどけりゃしんどい言えよ

その方がいさぎいいってゆーかさ

個人的に好きやな。

あくまでも個人的な話で

 

おそらく全体的な美学が

わくわくとか笑顔とか感謝とか

ポジティブな言葉なんやろうな。

 

現にそういう人が賛美され

人が集まるわけやもんな。

 

そういう人が後に

あのときはしんどかった

なんて言うのがええ話なんやろな。

 

ともかく

無理にわくわくせんでええと思うねん。

「無」でええと思うねん。

私は無でいこう。

必死

やることを書き出す。

出来そうなこと

必要なこと

順番にやっていく。

とにかく

やっていく。

思い立ったこと

それが何かに繋がる保証なんてどこにもない。

だけど

 

やることがあるのだから

それをやるしかないじゃない。

不安なんて感じてる暇ないぞ。

自分に言い聞かせる。

 

10動いて

何もないかもしれない。

そしたらまた10動いて

もっと動いて

100くらい動いたら

もしかしたら何か反応があるかもしれない。

 

収益には繋がらないかも

わからない。

本当にわからないけど

動ける自分がいるのだから

ありがたいこと。

手立てがあるのだから

遂行するのみ。

 

時々

過去を思い出す。

良い時代のこととか

思い出す。

どうしてるのかな

過去のみんなにも今があって

今のみんなはやっぱり大変なんだろうな。

世の中みんなが大変なんだから

やること見付けられる私は幸せ。

可能性があるってことだもん。

 

死ぬか生きるか時間の問題

だからこそ今を必死で行動せねば

その努力をしたことは

大きな自信に繋がるはずだから

楽しさや幸福感って、どこから芽生えてくるんだろう。

知らないことを知る楽しさ。

美味しいものを食べる幸福。

そうした際に分泌される脳内物質は同じなのかな?

 

なんで私は熊楠の物語を読むことを楽しいと感じるのだろうかと。

なんで私は朝食をとりながら新聞を読む時間に、溢れんばかりの幸福を感じ、その時間を待ちわびるのだろうかと。

そして、あんなに楽しかった動画に飽きてしまうのだろうかと。

何か別の新しい何かを求めるのだろうかと。

そうしたことを考えると不思議でならない。

 

だって、同じ食べ物を、誰かは大好きだと言って

別の誰かは大嫌いだと言うのだから。

そこに共感なんてありえないわけだから

それを認め合うようにして人間関係を形成していくんだろうけど

食べ物以外の好き嫌いに関してとかく反感まで持ってしまう相手とは

相容れない関係と呼ばれる関係性になるのだろうね。

 

ある場所に誰かと居るとして

その人が興味し話したがっている事柄に全く興味を持てずにいる場合

何か話さなければならないのか

若しくは、黙っていても良いのか

如何なる場合であっても後者を選択したいなーと私は思うものだから

話しかけられると苦痛なんだね。

 

そうだ、そんな感じで始めてみようかな。

小説の書き出し。

いてもたってもいられない焦燥感

寝てもいられない。

想起したのは過去のこと。

ある物語のロールケーキ。

 

誰かを喜ばせたいと思う心。

それは私の喜びでもある。

その感動のためにちょっと努力して

早く言いたい心を我慢。

サプライズで一緒に感動。

 

ちょっとした感動のために

人は平凡な日常を送るのかもしれない。

そうして平凡に不安になって

このままでいいのかなって思ったりしたら

今頃他の人は何しているんだろうって考えて

テレビのスイッチを入れるのかもしれない。

 

そこにはいつも誰かいて

安心をもたらしてくれるんだわ。

そこに入り込んで

自分の時間を奪われる

それがまた恐怖になって

私はテレビを見なくなった。

 

現実を見なくっちゃって思ったんだ。

ずっと奪われてきた時間を取り戻すために

ずっと学んでこなかった知識を身につけるために

今は吸収したいし

前に進みたい。

 

どこに向かっているのかは

本当はよくわかっていない。

多分原点は冒頭に書いた

誰かを喜ばせて

その喜びの共有を望んでいるのかな。

だけどそれは誰でもいいわけではないから

そこがとても難しい。

 

おちおち昼寝もしていられない。

予定は常にあって

決して暇はない。

一日一歩で良いとは思うが

遅れているぶん不安になるね。

 

きっとみんなそうなんだ。

大変な努力をして

その先に目指す姿があるんだね。

 

がんばれ自分!